牛川の渡し

 

現在の牛川の渡し(2020年4月撮影)

現在の牛川の渡し(2020年4月撮影)

豊橋市に河口をもつ一級河川、豊川(とよがわ)には、現在も「渡し」があるのをご存じだろうか。その名も「牛川の渡し」。我が家から徒歩10分。自粛生活のかっこうの散歩コースになっている。

この「渡し」、1975年ごろまでこの近くに3か所残っていた。高校生になって、豊川市の高校まで、片道約10kmを自転車で通うことになり、このうちのひとつ「天王の渡し」を使うことになった。

この渡し、豊橋市下条町と豊川市天王町を結ぶ市道の一部であり、料金は無料。下条側に小屋があり船頭が常駐している。天王側には鐘が設置してあり、渡りたい時はそれを鳴らせば迎えに来てくれる。現在残る牛川の渡しとまったく同じシステムだ。

姫街道と呼ばれる国道の当古橋をわたるより、1-2kmは近道になるだろうか。しかし、強風時は欠航。好天でも、大雨のあとなど、川が増水した日も欠航になる。渡船場まで行ってみても、船頭が首を横にふれば、当古橋までかえって大まわりを強いられる。しかし、船で川を渡って学校に通うという、当時としても十分古風に思える通学スタイルは、自然好きの少年にとっては学校にうモチベーションにさえなっていた。

晴天が続くと日ごとに川の水は澄んでくる。そして、一日悪天があると濁り、再び少しづつ澄みはじめ、澄みきった頃にまた悪天が来る。そんな川面を眺めながら渡してもらうなどというのは、今にして思えば本当に贅沢な通学だった。

しかし、その通学スタイルも一年で変更を余儀なくされた。数キロ下流に新しく橋が完成したのに伴って、三つの渡しのうち現在も残る牛川の渡しだけを残して、二つは廃止されることになったのだ。

当時すでに天王の船は樹脂製の近代的なものだったが、三つ目の渡しである行明の渡しの船は木造船だった。記憶によれば、現在の下条橋付近に渡船場があったと思う。その一年間のうち、一度か二度渡してもらったことがあるが、天王に比べると不安定でやや心もとない乗り心地だったと記憶している。

天王の渡しの渡船場の跡地は、現在、園地になっていて記念碑やベンチが設置されている。1975年当時と風景はそれほど変わっていないが、行明の渡し付近は新しい橋が架かって様変わりした。

天王の渡し渡船場跡地

天王の渡し渡船場跡地

廃止の翌年、天王の船頭夫妻に、豊橋駅近くで会ったことがある。船頭は市の嘱託職員である。渡しがなくなって、駅周辺の駐輪場の管理を担当しているとのことだった。川べりの小屋で客を待ちうけ、自然と歩調を合わせて仕事をしていた夫婦が、急に雑踏での仕事を強いられているようで、気の毒になった記憶がある。

さて、現在残されている牛川の渡しだが、ここも近く新しい橋が完成するということで、数年前渡船場が移動した。幸い、橋が完成しても渡しが廃止になるということはないようだ。以前は対岸に農地をもつ人が、自転車で鍬を担いで渡してもらうというようなニーズが多かったようだが、現在では、観光的な色合いが濃くなっている。

現在の船頭が作ったという中央構造線のジオラマ。牛川の渡しの渡船場にある。

現在の船頭が作ったという中央構造線のジオラマ。牛川の渡しの渡船場にある。

最近、その渡船場に写真のようなジオラマができた。船頭の一人が作ったという。中央構造線の真上を流れる豊川周辺は、格好の地学の実習地だ。現在の船頭の知識には舌を巻くが、渡しが担う社会的役割も、昭和の時代とは様変わりしている。

現在では観光的な乗客が大半を占める

現在では観光的な乗客が大半を占める

市役所から散歩できるほどの都市近郊としては、豊川の河川敷の植生はまずまず保たれている。願わくはこれ以上よけいな公園化などをせずに、牛川の渡しとともに豊川の自然景観が残されることを望みたい。

 

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