牛川の渡し

 

現在の牛川の渡し(2020年4月撮影)

現在の牛川の渡し(2020年4月撮影)

豊橋市に河口をもつ一級河川、豊川(とよがわ)には、現在も「渡し」があるのをご存じだろうか。その名も「牛川の渡し」。我が家から徒歩10分。自粛生活のかっこうの散歩コースになっている。

この「渡し」、1975年ごろまでこの近くに3か所残っていた。高校生になって、豊川市の高校まで、片道約10kmを自転車で通うことになり、このうちのひとつ「天王の渡し」を使うことになった。

この渡し、豊橋市下条町と豊川市天王町を結ぶ市道の一部であり、料金は無料。下条側に小屋があり船頭が常駐している。天王側には鐘が設置してあり、渡りたい時はそれを鳴らせば迎えに来てくれる。現在残る牛川の渡しとまったく同じシステムだ。

姫街道と呼ばれる国道の当古橋をわたるより、1-2kmは近道になるだろうか。しかし、強風時は欠航。好天でも、大雨のあとなど、川が増水した日も欠航になる。渡船場まで行ってみても、船頭が首を横にふれば、当古橋までかえって大まわりを強いられる。しかし、船で川を渡って学校に通うという、当時としても十分古風に思える通学スタイルは、自然好きの少年にとっては学校にうモチベーションにさえなっていた。

晴天が続くと日ごとに川の水は澄んでくる。そして、一日悪天があると濁り、再び少しづつ澄みはじめ、澄みきった頃にまた悪天が来る。そんな川面を眺めながら渡してもらうなどというのは、今にして思えば本当に贅沢な通学だった。

しかし、その通学スタイルも一年で変更を余儀なくされた。数キロ下流に新しく橋が完成したのに伴って、三つの渡しのうち現在も残る牛川の渡しだけを残して、二つは廃止されることになったのだ。

当時すでに天王の船は樹脂製の近代的なものだったが、三つ目の渡しである行明の渡しの船は木造船だった。記憶によれば、現在の下条橋付近に渡船場があったと思う。その一年間のうち、一度か二度渡してもらったことがあるが、天王に比べると不安定でやや心もとない乗り心地だったと記憶している。

天王の渡しの渡船場の跡地は、現在、園地になっていて記念碑やベンチが設置されている。1975年当時と風景はそれほど変わっていないが、行明の渡し付近は新しい橋が架かって様変わりした。

天王の渡し渡船場跡地

天王の渡し渡船場跡地

廃止の翌年、天王の船頭夫妻に、豊橋駅近くで会ったことがある。船頭は市の嘱託職員である。渡しがなくなって、駅周辺の駐輪場の管理を担当しているとのことだった。川べりの小屋で客を待ちうけ、自然と歩調を合わせて仕事をしていた夫婦が、急に雑踏での仕事を強いられているようで、気の毒になった記憶がある。

さて、現在残されている牛川の渡しだが、ここも近く新しい橋が完成するということで、数年前渡船場が移動した。幸い、橋が完成しても渡しが廃止になるということはないようだ。以前は対岸に農地をもつ人が、自転車で鍬を担いで渡してもらうというようなニーズが多かったようだが、現在では、観光的な色合いが濃くなっている。

現在の船頭が作ったという中央構造線のジオラマ。牛川の渡しの渡船場にある。

現在の船頭が作ったという中央構造線のジオラマ。牛川の渡しの渡船場にある。

最近、その渡船場に写真のようなジオラマができた。船頭の一人が作ったという。中央構造線の真上を流れる豊川周辺は、格好の地学の実習地だ。現在の船頭の知識には舌を巻くが、渡しが担う社会的役割も、昭和の時代とは様変わりしている。

現在では観光的な乗客が大半を占める

現在では観光的な乗客が大半を占める

市役所から散歩できるほどの都市近郊としては、豊川の河川敷の植生はまずまず保たれている。願わくはこれ以上よけいな公園化などをせずに、牛川の渡しとともに豊川の自然景観が残されることを望みたい。

 

車中泊キャビネット

コンパスビッツ・パランティカ号納車からちょうど一年。納車直後、使い勝手を確かめるべく、内装に穴を開けたり、定員を変更する必要がある改造などを一切行わずに、仮の装備を作りつけた。→ここ。しかし、やはりその使い勝手の悪さはそうとうなもので、1年目の冬に新たな「車中泊キャビネット」の製作にとりかかることにした。

1年使ってみた仮のキャビネット。テーブル越しに収納になっていたので、調理中、食事中に足りないものがあると、とてもとりにくくて使い勝手が悪かった。

1年使ってみた仮のキャビネット。テーブル越しに収納になっていたので、調理中、食事中に足りないものがあると、とてもとりにくくて使い勝手が悪かった。

◆セカンドシートの撤去
もっとも問題になったのはセカンドシートを生かして車中泊装備をその上に作りつけたが、なんといっても使ってもいないシートが場所をとりすぎるため、収納力と生活スペースが圧迫されていること。
前車前前車とも、セカンドシートを外して、そこに自作のキャビネットを作りつけた。
まず、車体に止めてあるボルトを回すが、いくら回しても空回りするだけで上がってこない。ビルダーのホワイトハウスの工場長に電話。車体にはバカ穴が開いているだけなので、一人が潜ってスパナでおさえ、もう一人が車内から回すしかないとのこと。家にごろごろしていた次男をつかまえて、なんなく外すことができた。

◆基礎構造
骨組みとなる基礎構造は、DCMカーマホームセンターの工作室を利用。前車までは近所に工作室のあるホームセンターがなかったので、木材のカットをやってもらい、ホームセンターの屋上の駐車場のすみで組み立てた。
なんといっても、工作室にはいろいろな工具がありはかどる。写真は、コーナークランプ。箱状のものを組み立てるときには、これがあると精度高く仕上がる。

カーマホームセンターの工作室で組み立て。コーナークランプは強い味方。

カーマホームセンターの工作室で組み立て。コーナークランプは強い味方。

◆仮の材料で車中泊試用
二日ほどかけて、基礎部分が完了。この時点で一度、車中泊に試用してみる。ちょうど、2泊で関東にセミナーで行くことになっていた。天板には、ウォルナット材を発注していたが、パイン集成材の廃材を使って仮の天板とスライドテーブルを作る。
出先のカインズで思いつき、スライドテーブルの裏側に、鬼目ナットを仕込み、脱着式の脚を作る。これで、中泊(ポップアップではなく車内で眠ること)するときに、このテーブル部分にかなりの体重がかかっても持ちこたえられることがわかった。

ここまで丸二日。この状態に、仮の天板とスライドテーブルをつけて、車中泊に試用。使い勝手を確認する。

ここまで丸二日。内部構造もだいたい完成。この状態で、あらためて採寸し、化粧版を発注。

 

仮のテーブルをつけて、車中泊に試用。使い勝手の確認をする。

仮のテーブルをつけて、車中泊に試用。使い勝手の確認をする。

◆本材で仕上げ
外から見えるところには、ウォルナットの矧ぎ板をオイルフィニッシュして使うことにした。数年前、リコーダースタンドを作った時に、このウォルナットのオイルフィニッシュの魅力を知った。少々高いが、20年使うのだから納得のいく仕上げにしたい。府中家具のカット販売は、そのままでも使えそうな仕上げで送ってくれるが、240番でさっと磨けばオイル仕上げにかかれる。オイルはワトコオイルのナチュラルと、ワトコワックスでしあげた。食卓としても使うテーブルなので、安全な塗装がよい。ワトコオイルは亜麻仁油を主成分としているのでまず安心だ。今思えば食品用の亜麻仁油でもよかった。IMG_2905

かくして完成!

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引き出しの仕様は3種類。大きなものは、左右にスライドレール。中くらいのものは底に一本のスライドレール。小さな引き出しはそのまま。

引き出しの仕様は3種類。大きなものは、左右にスライドレール。中くらいのものは底に一本のスライドレール。小さな引き出しはそのまま。

前車にもあった酒類収納引き出し。

前車にもあった酒類収納引き出し。

スライドレールを使った縦型の収納。包丁やまな板がいれやすい。

スライドレールを使った縦型の収納。包丁やまな板がいれやすい。

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スライド式テーブル
これでかなりの面積のテーブルが出現。格段に使いやすくなった。左右にベアリング式のスライドレールを使ったが、これが動きが軽すぎてかえって使いにくい。適度に止まるようにそこに摩擦用のベニヤを装着(両面テープ)。

40cm×90cmのスライドテーブル。

40cm×90cmのスライドテーブル。

テーブルが適度に止まるよう底にべニアを貼る。

テーブルが適度に止まるよう底にべニアを貼る。

 

背面ミラーパネル
今回の新しいアイデア。背面に姿見とレンジフードを兼ねた難燃性パネルを装備。写真の展示に使うアルポリックというアルミ複合版を使った。片面が鏡として使える光沢のあるものだ。カッターで切ることもでき、比較的軽量なのがうれしいが、けっこう高い(7000円くらい)。

背面パネルをあげたところ。

背面パネルをあげたところ。

トランクかんと呼ばれる部材。本来、引き出しの取っ手として使われるが、90度くらいで止まるので、パネルのストッパーとして利用。

トランクかんと呼ばれる部材。本来、引き出しの取っ手として使われるが、90度くらいで止まるので、パネルのストッパーとして利用。

ライトウィング
メインキャビネット右手にデッドスペースができる。ここを有効に活用したいとかねがね思っていたが、メインキャビネットが形になって来れば、ここの仕様も決まる。

曲線の多いスペースで苦戦したが、段ボールで型紙を作って、工作室の卓上糸鋸で形を作る。うまく入るように、カーマの一番入り口に近い駐車場(健常者用)に車をとめ、少し切っては車で合わせるということを5回ほど繰り返し製作。パイン集成材にワトコオイルだが、意外にいい感じに仕上がった。

ペーパー布巾のケースと飲料水ストッカーが一体になったライトウィング。

ペーパー布巾のケースと飲料水ストッカーが一体になったライトウィング。

コンセントは、インバーターから通電。

コンセントは、インバーターから通電。

 

これでメインキャビネットは完成だが、まだまだ、ブックシェルフやレフトスタンド部など、直したいところ、作りたいところがいくらでもある。春までにどこまでできるだろうか。

尾瀬のイギリス人

イギリスからの植物観察ツアー、その尾瀬でのローカルガイドを引き受けることになった。

準備を始めて愕然としたのは、尾瀬にあるような日本に特徴的な植生を構成する植物の学名がさっぱり言えないこと。国外にないものほど、学名を使う機会が少ない。

付け焼き刃で、下見をしながら、見た植物の和名学名対照表を作りツアーに備えた。前日は、まるで高校の時一夜漬けで豆単テストに備えたような勉強をした。

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遠来の客を迎えてみると、今度は発音の違いに愕然。植物の学名はラテン語なので、一応ラテン語的な発音が推奨されているが、実情はそれぞれの国の言語の発音に大きく左右される。

それでも学者はさまざまな国の学者と日常的に交流するからだろうからか、ラテン語に近い発音をする、あるいはしてくれる人も多いのかもしれないが、今回案内するのは、いわば市井の趣味家である。

スミレのViolaをヴィオラと言っても首をかしげる。楽器のことかと思ったという。彼らの発音はヴァイオラなのだ。

カエデのAcerを、自分はロシア人風にアツェールと読んでしまうが、彼らはエイサーと読む。カエサルがシェイクスピアではシーザーになることを思えば、腑に落ちる。

それにしても、その市井の趣味家の知識の量と深さに驚愕した。なかで、もっとも詳しいダイアンという女性は、日本や中国の植物を種子をとりよせ自分の庭で多数育てている。

アズマイチゲもカラフトアツモリソウもある。花が咲く前のミズキの木を教えると

「ごめんなさい、これも私の庭にあるわ」

と得意げに謝った。

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イワナシの咲くところに連れて行くと、

「これが見たかった。世界に三種。アメリカとコーカサスと日本。これがそのひとつね」

この属の世界の分布をさらっと教えてくれた。むろん、日本語でも調べればわかることではあるが、日本に一種しかないこの属の種ごとの分布など、よほど特別な関心をもつ人以外、諳んじている日本人もないだろう。

彼女は特に詳しいが、これまで知り合ったイギリスの園芸人の知識の量と幅には驚かされる。今回のほかのメンバーも例外ではない。

自国の植生はお世辞にも豊かと言えない。種数でいえば、日本の半分にも満たない。固有種も数えるほどしかない。

結果、彼らの関心は最初から世界に向く。キューガーデンと王立園芸協会という、植物学と園芸の世界のセンターがいずれもロンドンにあり、そこに集積された世界中の文献も、多くは母国語の英語で読むことができる。

さらには、夏が涼しく冬暖かいイングランドの気候は、たいていの環境の植物が簡単に育つという。

母国語と同じアルファベットで構成される学名も、自然に入るのだろう。日本人が和名を漢字でや生薬名で覚えているような感覚だ。学者ならずとも普通に使う。

道すがら、我々が休憩している傍で、オオバノヨツバムグラの葉を見て、

「これってクローバーじゃないわね」と明後日のことを言い出す日本人がいるので、思わず、

「ちがいます。ヤエムグラの仲間ですよ」

と節介をやくと

「やえむぐら…..?」

「ヤエムグラそのものではないんですけどね」とまどろっこしいことになった。

イギリス人に説明するのなら

It’s Galium!

の一言で済む。

ヤナギランの名を教えると

「へえ〜、蘭なんですねえ」と必ず反応する人がいるが、学名ならその類の誤解の心配は不要だ。

むろん、和名は日本人の植物への見方を反映した財産でもあるが、同時に植物分類学の考え方を反映した学名を扱うことで、知識は整理しやすくなり広がりと深まりをもつ。さらには外国の識者と交流するのに欠かせないのは言うまでもない。

私はもはや手遅れ感もあるが、植物関係で仕事をしようとする人なら、和名より先に学名を覚えるような気持ちでとりくむことを、強くお勧めする。

和名と日本語禁止の植物観察オフ会などあれば、参加してみたい。

尾瀬の谷川洋一氏

どうやって知り合ったのかもはっきり覚えてないが、NHKスペシャルで、長蔵小屋での越冬のようすが番組になった時には、すでに知り合いだった。

その後、あるいはその時すでに話はできていたのか、彼の写真は、当時すご腕として知られた小学館の編集者の目に留まり、写真集になった。発刊記念のギャラリートークでは、印刷が間に合わず、その編集者が詫びた場面も思い出せる。

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尾瀬に行くたびに、よく、ばったり出会った。沼尻の休憩所の番をしていたこともあったが、たいていは、彼も非番で三脚をかついで原の木道を歩いていた。沼尻の休憩所へは、長蔵小屋からボートで出勤すると得意げだった。

大霜の降りた朝、あらかじめ見定めておいたヨッピ橋近くのポイントで、夜明け前に三脚を構えていると、あとから彼が現れたこともある。特に有名なポイントというわけではなく、彼と私以外だれもいない場所だった。

訃報を聞いたのは、10年近く前、尾瀬にゆかりの深い弟からだった。弟も葬儀に行ったりしたわけでなく、人づてに聞いたという。今も半信半疑のまま久しぶりに尾瀬沼に来た。

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彼が小屋番をしていたこともある沼尻の休憩所は、数年前の火災で焼失し、すっかりきれいに建て替わっていた。話し好きの小屋番は、年齢こそ私や谷川さんよりだいぶ上だが、定年後にこの仕事についてまだ日が浅いという。当然、港のヨーコヨコハマヨコスカ状態だ。

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長蔵小屋でカレーライスを注文し、やはり年配の小屋番に尋ねてみると、そのバンダナの老紳士もやはりやっと5年目だという。休憩所の紅茶に400円、カレーライスに800円払ってもまだ彼に辿り着けぬ。

「古い人ならしっているかもしれません。」

呼ばれてわざわざ出てきてくれたのは、我々より少し若いと思しき小屋番。

「その少し前にすでにここをやめていたんです。我々も病気のことはなにもしらなくて、皆驚きました。」

訃報を聞いて10年近く、なんとなく半信半疑だった彼の死だが、この長蔵小屋に来て、彼がいないことを知り、やっと私のなかで現実のこととなった。

何万年もかけて、沼が湿原に、湿原が森林に遷移するこの尾瀬の大自然。彼も私も、その表層を、風のように通りすぎる一介の存在であるということに、その時初めて気づいたような気がした。

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へびを手にした少年

多田逸郎。

自分と同世代でリコーダーを演奏する人ならこの人の名を知らないわけはないだろう。日本のリコーダー界の草分け。ゼンオンから出発されたリコーダーの譜面のシリーズは、今も定番の楽譜として広く使われている。

実は自分と同郷というだけでなく、多田先生が高校生の時に、自分の父がソルフェージュを指導したり、父の主催するコーラスのメンバーとして参加されたりしていた。むろん、自分が生まれるよりはるか昔、戦後間もない頃のことだ。

多田先生と初めてお会いしたのは、自分が小学校3年生くらいのこと。その頃住んでいた借家に多田先生が東京から初めて訪ねて来られた時のことだ。

見慣れないフォルクスワーゲンが、へびを捕まえている自分を横目に、家の前を一旦通り過ぎたが、Uターンして戻ってきた。

「猪狩先生のお宅はこのあたりではありませんか?」とへびを手にした自分に尋ねるフォルクスワーゲンの主が多田先生だった。

あとから聞いたことだが、住所からすると先生のお宅はこのあたりだが、へびを捕まえている少年がいるから、まさかここは先生のお宅ではないだろうと思ったそうだ。父はへびをつかむなどということは想像だにできない音楽教師だった。

多田先生は、父のソルフェージュ指導のあと、東京芸大の楽理科に進学し、その後、芸大の講師や東京教育大学附属駒場中学などの教員をしながら、日本にバロック音楽とリコーダーを普及する仕事をされた。

ちょうど自分が小学校低学年の頃、父のピアノ教室の発表会の記念品として、その頃まだ普及する前のバロック式リコーダーを、多田先生のお世話で採用した。

その関係で、当時の家には、その予備として購入したソプラニーノからアルトまでのリコーダーがおもちゃのように転がっていた。小学校でリコーダーを習う前に、知っているメロディならリコーダーで吹いてみるのは、いわば習慣になっていた。

多田先生の父へ恩義の念はすさまじいもので、生涯変わることはなかった。食べるもののなかったあの時代、食べ盛りの高校生であった多田先生に、父は腹一杯食べさせたと、ことあるごとに多田先生は語られた。

恩人の息子である自分にも、ほんとうによくしてくださった。東京で初めて写真展をしたときには、会場近くの知遇の店でご馳走していただいたのも今や思い出だ。

20代の頃、笛吹行脚などをして、どちらかといえば、リコーダーの異端児であった自分にとってはちょっと煙たい感すらあったが、むろん、先生はそれに苦言らしきことを呈されたことは一度もない。

それどころか、50歳を過ぎてから、初めて作ったリコーダーのCDをお送りした時、
「ブローイングが本格的だ」とお褒めいただいた。そのことは、現在もなによりの自信になっている。
また、同じ手紙に、
「あのへびを手にしていた少年が白髪混じりになりリコーダーを吹いているとは感慨深い」というようのことも書いてくださった。

2017年の末、母の逝去をお知らせした時に、多田先生から届いたハガキに、入所されている施設の名前が書かれていた。癌と闘病中だとはうかがっていた。それでなくとも、80も半ば過ぎのご年齢。

多田先生とのご縁で今もリコーダーを演奏していることのお礼を、直接お伝えしたくて施設にお訪ねした。

車椅子を自ら操って病室から出てこられた先生は、身体の衰えはあるものの、精神活動はまったく若き日のまま衰えていないご様子だった。母の逝去の報告とリコーダーとのご縁をいただいたお礼を、しっかりとお伝えすることができたが、一方で、お会いできるのはこれが最後になるかもしれないと、思わなかったといえば嘘になる。ご逝去はそれから4ヶ月ほどあとのことだった。

多田先生のお手紙は名物だった。原稿用紙にブルーの万年筆。さらに、旧字体、旧仮名遣いで、まるで篆書のフォントのような、これでも手書きかと思わせるような筆致である。

後年、さすがにパソコンを使われるようになったが、それでも、わざわざ旧字体のフォントを使われ、旧仮名遣いも踏襲されていた。

拝見したことはないが、手書きの譜面は、筆五本を片手に握り五線譜を引くところから始め、後年の研究者がバッハの自筆譜と間違えるようなものを書きたいとおっしゃっていたのが印象に残っている。

一般的にいえば、そうとう堅物の部類に入るお方だが、堅物ならではの茶目っ気というか、気どりの楽しい方だった。

ピアノ教室の家に生まれながら、その楽器が身につかなかった自分が導かれるように演奏しているリコーダーという楽器。この楽器が好きで好きでたまらないとか、憧れたり恋したりしたことはない。気がつくとそこにあり、60歳を目の前にした今、いつのまにか自分の音楽表現上、最も重要な楽器になっている。

その源にあったものが、多田先生と父との出会いであり、その恩に報いようと生涯を通じて、へびを手にしたその不肖の息子に目をかけてくださった多田先生のお気持ちであったことに、今ようやく気づきつつある。

ありきたりの自然のなかにあるメッセージ

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Canon EOS 70D (180mm, f/4, 1/160 sec, ISO200)

 

植物を見ることに楽しみを覚えると、だんだんありきたりの種類を見たのでは物足りなくなってくる。北の山や南の島に足を伸ばして、その場所でしか見られない植物を見ることは楽しい。

しかし、交通の便がよくなり、インターネットの情報も巡らされ、そんな孤高の固有種も今や誰もが気軽に見ることがかなうものになってきた。

それらに興味を持つことはいいことだが、同時に、限られた植生に観察する人が押し寄せることの弊害も考えなくてはならない。

大勢の人がそれを見に行くことの植生への負荷が、そんな固有種を危機に追いやっているケースも少なくないのである。

そこにしか咲かない花は、自然界の秘密を雄弁に語ってくれることも多いが、普通に見られる植物の中にも、同じだけそのメッセージは秘められている。

同時に、雑木林や人里の植生は、比較的人的影響に強いので、少々大勢の人が踏みつけても、高山や湿原の植生に比べれば、深刻な影響は出にくい。(ただし限度はある)

大雪山では決して許されない、花を分解して観察してみたり、葉をちぎって匂いをかいでみたりという観察ができるのもそんな植生ならではだ。

撮影にしてもしかりだ。高山帯では植生に気を使って腫れ物に触るように撮影しなくてはならないが、農道のチカラシバやオオバコが相手なら、少々踏みつけようが、その上に座ろうが、心配ない。

誰の目にも触れているありきたりの自然の中から、生きることのメッセージを見つけて切りとるという姿勢は、師匠である冨成忠夫先生から学んだものだ。

先生の生きた時代は、今ほどオーバーユースが問題になっていたわけではない。むしろ、先生の自然観、芸術観に根差した理念のようなものであるが、この時代になって、ますますその姿勢の意味に重みが増してきたように感じる。

コンパスビッツファーストインプレッションvol.5 室内バー取付

ハイエースの超定番DIYのひとつにパイプラックがある。釣り人ならロッドの収納ラックのベースとして、そうでなくても、さまざまな用具を車内にかけておける応用範囲の広い装備だ。

特に自分の場合は、旅先で、ライブ、ワークショップ、講演など、さまざまなスタイルの仕事をこなさなければならない。さらに、春先に関東から北海道まで移動すると、冬から夏のすべての季節の衣装が必要になる。この衣装をかけるためのパイプバーも必要だ。

基本的なDIYは先輩諸氏のブログが参考になる。

https://48rider.com/hiace-diy-pipe-rack/

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ただし、コンパスビッツの場合は、標準ハイエースと内装の仕様が違うので、48rider先生推奨のクリップナットは使えず、ターンナットでの取付になった。

さらに、クローゼットに使う予定のコックピットとセカンドシートの境目に、左右にバーを設置。これは参考ブログもなかったが、エアコン吹き出し口のタップを使って取り付けてみた。強度にやや不安は残るが、逆上がりや大車輪をするわけではないので、なんとかもちそうだ。

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コンパスビッツ ファーストインプレッションvol.4 ポップアップルーフ考察

残念ながらポップアップルーフについては帯に短したすきに長しだ。

最も便利だったのは自分にとっての初代ポップアップ、デリカスターワゴンのそれだった。

11年30万キロ走ったデリカスターワゴン

ルーフの上に不格好に飛び出ていたが
敷布団だけでなく掛け布団まで敷いたまま収納できた
ルーフの上は天日干しになるので万年床とはいえ
ふとんはよく乾く

その代わり、車高は2.1mを超え、駐車場探しには苦労した。

次のステップワゴンウィークエンダーはかなりルーフ収納スペースが薄くなった。しかし、1.9mの車高は都市でもストレスなく使える。引き換えにステップワゴンの最低地上高では、ついつい悪路に入るのを躊躇してしまい行動力が鈍る。

コンパスビッツのポップアップはそのどちらに比べても薄くスタイリッシュだ。

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もともと全高の高いハイエースをぎりぎり2.1mに抑えてあるのは価値が高く、一方でかなりの悪路も走ることのできる最低地上高を確保できているという点でギリギリのバランスなのだが、それにしてもルーフにごく薄い布団しか収納できないのはまったく使いにくい。

現在、ウィークエンダー時代から使っているエアーウィーブの3.5cm厚のマットレスと厚めのアルミウレタンマットを敷いているが、ちょっと薄い感がある。3.5cmのエアーウィーブはもともとマットレスの上に敷くことを前提に作られた商品だ。
ウィークエンダーには、エアーウィーブとせんべい布団をなんとか収納できたが、どうしてもせんべい布団が入らない。

車中泊が仮の宿泊ならこれで十分だが、毎日のこととなるともう少し快適な寝具環境がほしい。睡眠の質は昼間の行動力に直結する。

コンパスビッツの薄いルーフ収納でうまく快適な寝具環境を構築するにはまだ時間がかかりそうだ。

コンパスビッツ ファーストインプレッションvol.3 リビングスペースDIY編

コアとなるリビングスペースは
キッチンとダイニング、そして書斎を兼ねる
既存のキャンピングカーは圧倒的に収納が足りないので
それをどこに作るかが大きな課題だ
とにかく収納できればいいのではなく
手の届くところに収納されていて
必要な時にいつでも取り出せなければならない

残念ながら既存の家具を生かしてそれを作るのは限界がある
とりあえず作ってみたが使い勝手はいまいち
この部分は次の冬にでも根本的に作り直す予定IMG_9600
テーブルの下部に作った収納庫。

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酒類は4合瓶や1.8Lパックが5本入る

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サード
シートにストラップで固定してある

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蓋は二重になっていて上部は書斎モード。PCなどが収納できる。

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完全に閉めるとこうなる。車内で就寝するときはこの上にマットを敷くことになる。

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前部にふきんやキッチン小物をかけることができる

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調味料スタンドはそのまま収納できる