サラリーマン時代、一度だけお盆の休みに南アルプス南部の玄関口と呼ばれる三伏峠まで登ったことがある。
長い河原歩きの後、尾根に取りつくと、登れども登れども黒々とした針葉樹林が続く。登山家の間ではこの針葉樹林帯の急登が、「南アルプス名物」と呼ばれているという。雪の少ない気候が森林限界の標高を高め、北アルプスなどと比べるとずっと高いところまで針葉樹林が発達しているのである。それが南アルプス南部のどっしりとした重厚な山岳景観をつくり、今だに安易なハイカーを寄せつけない山屋の領域を保っているひとつの所以でもある。
夏山最混雑期のお盆休み中だというのに、小屋の半分も人が入らない山小屋の靴脱ぎ場には、最近多くなった新素材のトレッキングシューズは一足もなく、すべてよく使い込まれた革製の登山靴ばかりであった。どちらが良いとか悪いとか言うつもりは毛頭ないが、この山域を訪ねる人たちの山に対する思い入れが、こんな所にも表れているような気がした。
針葉樹林帯を抜けて峠に至ると、塩見岳を見渡せる草地がある。「三伏峠のお花畑」と呼ばれるその付近は、南アルプス南部でも指折りの植物の宝庫だという。私が訪れた時には、もうタカネマツムシソウの濃い青紫の花が、秋の気配を漂わせていた。
山はだを駆け登ってくる風が、この峠を越える時ほんのり秋の色をつけられてゆく。そんな季節の折り返し点にいるような気にさせられる涼しげな青紫であった。(1991年8月号)
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