ありきたりの自然のなかにあるメッセージ

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Canon EOS 70D (180mm, f/4, 1/160 sec, ISO200)

 

植物を見ることに楽しみを覚えると、だんだんありきたりの種類を見たのでは物足りなくなってくる。北の山や南の島に足を伸ばして、その場所でしか見られない植物を見ることは楽しい。

しかし、交通の便がよくなり、インターネットの情報も巡らされ、そんな孤高の固有種も今や誰もが気軽に見ることがかなうものになってきた。

それらに興味を持つことはいいことだが、同時に、限られた植生に観察する人が押し寄せることの弊害も考えなくてはならない。

大勢の人がそれを見に行くことの植生への負荷が、そんな固有種を危機に追いやっているケースも少なくないのである。

そこにしか咲かない花は、自然界の秘密を雄弁に語ってくれることも多いが、普通に見られる植物の中にも、同じだけそのメッセージは秘められている。

同時に、雑木林や人里の植生は、比較的人的影響に強いので、少々大勢の人が踏みつけても、高山や湿原の植生に比べれば、深刻な影響は出にくい。(ただし限度はある)

大雪山では決して許されない、花を分解して観察してみたり、葉をちぎって匂いをかいでみたりという観察ができるのもそんな植生ならではだ。

撮影にしてもしかりだ。高山帯では植生に気を使って腫れ物に触るように撮影しなくてはならないが、農道のチカラシバやオオバコが相手なら、少々踏みつけようが、その上に座ろうが、心配ない。

誰の目にも触れているありきたりの自然の中から、生きることのメッセージを見つけて切りとるという姿勢は、師匠である冨成忠夫先生から学んだものだ。

先生の生きた時代は、今ほどオーバーユースが問題になっていたわけではない。むしろ、先生の自然観、芸術観に根差した理念のようなものであるが、この時代になって、ますますその姿勢の意味に重みが増してきたように感じる。

4件のコメント

  1. 鈴木 玲子 より:

    ありきたりの自然の中にあるメッセージ、そのありきたりに出会いたくて、参加できなかったワークショップでも、後から追いかけていき、お手本集にはとてもとても近づけない拙い写真をとって、それでも何か満足した気持ちになって帰るのです。
    以前のように手入れされた庭園の花や形良く刈り込まれた木々を、美しいとは思って眺めますが、自分で野山で見つけた草花や木のほうが、何か心踊りカメラを向けたくなります。
    いがり先生ワールドに忖度しているつもりもなく(失礼な言い方をお許しください)、恵まれた環境の花や木を差別しているつもりもないですが、不思議だねーと、一緒に歩き回っている友人と顔を見合わせます。
    同じ気持ちを持たれる方々も、多分沢山いらっしゃるのではないでしょうか。
    ありきたりの自然の魅力、それは天の与えたもうたものだからでしょうか。

  2. 鈴木 玲子 より:

    先日、豊橋方面に行く機会があって一度は行ってみたいと、葦毛湿原を訪れました。曇り空の薄ら寒い日でしたが、咲き残り?のシラタマホシクサに出会い、また枯れ草の原の風景を眺め、枯野の美しさは眺めたものの、苦心してもなかなか見た目通りの美しさは表せず。
    それより驚いたのは、水害のせいなのか、獣害なのかかなり荒れているように見えました。そんな所に、一人の老職人?ボランティア?の方がが黙々と穴のあいた道に土を盛っていました。挨拶をし、心の中で感謝を。
    年があけたら、雪をかぶった福寿草やセツブンソウに出会いたいと小さな旅でもしたいものとおもっていましたが、葦毛湿原で荒れた土地の手入れ(木の伐採、石ころの除去など)や希少植物の植生の保護をしてあるのを見て思いました。
    ありきたりの自然に会いたいと言いながら、やはり希少植物やそれめいたものを価値あるものとして、わたしのようなど素人が、結局踏み荒らしている事になるのではと。
    心優しい友人が、セツブンソウやミスミソウなど私にとっては珍しい憧れの花が、植えられて大事にされている植物園のような場所の写真をおくってくれました。
    そうだわ、何も憧れの花を見たくて貴重な場所を探し回らなくても、害を与えず見られるなら、そこで楽しもうと。葦毛湿原の帰り道、人家の道端やバス通りの端にまだ枯れもせず葉も青々としていた、アカタデやセンダングサに喜んでシャッターを切ったではないか。
    これからもその嬉しさを忘れず、根を張って生き生きとしているありきたりの自然の中で出会った草花に、心寄せられたらと思います。
    いがり先生の写真を拝見して最初に感動したのは、確か逆光を浴びるエノコログサやチヂミザサだったはずでした。

  3. 鈴木 玲子 より:

    先日、豊橋方面に行く機会があって一度は行ってみたいと、葦毛湿原を訪れました。曇り空の薄ら寒い日でしたが、咲き残り?のシラタマホシクサに出会い、また枯れ草の原の風景を眺め、枯野の美しさは眺めたものの、苦心してもなかなか見た目通りの美しさは表せず。
    それより驚いたのは、水害のせいなのか、獣害なのかかなり荒れているように見えました。そんな所に、一人の老職人?ボランティア?の方がが黙々と穴のあいた道に土を盛っていました。挨拶をし、心の中で感謝を。
    年があけたら、雪をかぶった福寿草やセツブンソウに出会いたいと小さな旅でもしたいものとおもっていましたが、葦毛湿原で荒れはた土地の手入れ(木の伐採、石ころの除去など)や希少植物の植生の保護をしてあるのを見て思いました。
    ありきたりの自然に会いたいと言いながら、やはり希少植物やそれめいたものを価値あるものとして、わたしのようなど素人が、結局踏み荒らしている事になるのではと。
    心優しい友人が、セツブンソウやミスミソウなど私にとっては珍しい憧れの花が、植えられて大事にされている植物園のような場所の写真をおくってくれました。
    そうだわ、何も憧れの花を見たくて貴重な場所を探し回らなくても、害を与えず見られるなら、そこで楽しもうと。葦毛湿原の帰り道、人家の道端やバス通りの端にまだ枯れもせず葉も青々としていた、アカタデやセンダングサに喜んでシャッターを切ったではないか。

    かこれからもその嬉しさを忘れず、根を張って生き生きとしているありきたりの自然の中で出会った草花に、心寄せられたらと思います。
    いがり先生の写真を拝見して最初に感動したのは、確か逆光を浴びるエノコログサやチヂミザサだったはずでした。

  4. 鈴木 玲子 より:

    昨年末投稿させて頂いた「ありきたりの自然からのメッセージ」に関する私のコメントは、情動的な面があった事を感じ、考えなおしてみました。
    珍しい植物に興味や好奇心を持ち、よい方法があればそれが満たされる事は素晴らしいと思います。
    植物の育成、観賞や自然保護についても、いろ色々な立場の方が研究され、また生業として携わっていられる事でしょうから、一口に語ることは難しい問題だと思いました。
    ただ、私はかつて行った尾瀬やたまたま訪れた葦毛湿原の自然災害の影響に少し触れて、植生を復活させる事に大変な時間と労力が必要なのではと少し想像できたのです。
    ありきたりの自然がありきたりのままで、毎年巡ってくることを、祈り願ってみることしか今はできませんが。

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